動けるけれど
動かない選択をする
動かないことは
受け身
そう捉える人も
いるかもしれない
でも実際は
そうではなくて
主導権が外側にある
それは
自分の意思ではなく
相手の動きや反応で
自分の動きが変わる
その状態
もし
主導権が
自分にあったとしたら
同じ選ばない
動かないでも
全く違うものになる
自分が動けば
流れを作れることを
知っている
でも
あえてやらない
それが
相手の自由と責任を守ると
分かっているから
選ぶ人は
自分の行為に責任をもって
踏み出す人
選ばない人は
主導権を持ったまま
相手に委ねる人
この構図に
受け身は
存在していない
ここでひとつ
疑問が出てくる
選ばないことを選ぶ
それは
選ぶ人なのではないか?
本当の意味での
選ばない人は
自分が選んでいないことに
無自覚
流れに乗せられていて
主導権が外にある人のこと
でも
選ばないことを
選んでいる人は
行為として選ばない
選択をしている
だからこれは
選ぶ人と選ばない人
ではなく
選ぶ人と
選ばされている人と
いえるのかもしれない
選択権は
いまどこにあるのか
行為と主導権は別物で
動かないという沈黙も
意思表現となる
これを
理解していると
主導権を
自分の手元から
手放すことはなくなる
ただこれは
その沈黙が
何を意味するのか
そこに至るまでの
対話によって変わる
主体的な選択であることと
関係性の中で
誠実な選択であることは
別物だ
一見
パラドックスだけれど
行為ではなく
主導権がどこにあるのか
動いたかどうかより
誰が舵を
握っていたのか
この視点があると
選ばないことを
選んでいる
この言葉が成立する
主導権を持ったまま
空白を残す
言葉遊びのようだけれど
実は
かなり高度で
自由な位置に
ある言葉

