言葉の奥へ
わたしは
大学生の頃から
理由も分からないまま
英語に惹かれていた
英語を
話せるようになりたい
そう思っていたわけではない
それよりも
英語という言葉が
人の中に入ったとき
何を動かすのか
どんな感覚を生むのか
それを
知りたかった
ピアノや音楽は
自然と身体に入ってくる
けれど英語は
そうならない
それでも
なぜか気になり続けていた
英語を学ぼうと決めたとき
わたしが見ていたのは
言葉の意味ではなく
言葉が
人に触れたときに起こる
内側の変化だった
音としての言語
英語を聞いたとき
最初に感じたのは
意味ではなく
音だった
その音は
身体の奥に触れてくる
胸のあたりが
わずかに震えるような感覚
外へ向かって
ひらいていく
英語の音は
どこか
金管楽器に似ている
まっすぐに
空間を押し出すような響き
身体の内側から
外へと抜けていく
その力が
人を外へ向かわせる
一方で
日本語は
木管楽器のように感じる
息の中にあり
やわらかく内側に広がる
響きは外に出るというより
身体の中にとどまり
静かに染みていく
英語と日本語は
ただ音が違うのではなく
人の内側に
異なる動きを生む
英語の音は
外へひらく力を持ち
日本語の音は
内側に沈み
関係の中で意味を育てていく
この違いは
言葉の意味ではなく
言葉が触れたときに起こる
変化として現れる
言語と拍
クラシック音楽の中で
わたしは
拍というものに触れてきた
音は
ただ鳴っているのではなく
時間の中に置かれ
流れを持って進んでいく
同じ音でも
どの拍に置かれるかで
重さや意味が変わる
わずかに前に出るのか
次へ向かう準備になるのか
その違いが
音の流れをつくっていた
そしてそこには
鳴らす音と
鳴らさない音がある
音を出さない時間は
止まるためではなく
次の音へ向かう
力を生んでいた
鳴らない音もまた
流れの中にあり
前へ進むための
一部になっていた
英語に触れたとき
その感覚と
どこかで重なった
音が連なり
拍の上に乗りながら
前へ前へと進んでいく流れ
その中で
発音されない音や
わずかに落とされる音が
次の言葉を
引き出していく
言葉は
すべてを鳴らすのではなく
流れの中で
選ばれていた
一方で
日本語は
音と音のあいだにある
静けさの中で
言葉が立ち上がる
同じ言葉でも
時間の流れ方が
違っている
音楽で感じていた時間と
言葉の中にある時間が
わたしの中で
静かにつながった
sympathyがひらいたもの
そのとき
わたしは
自分の中にある感覚を
うまく言葉にできずにいた
近い言葉はあるのに
どれも少しずつ違う
どこかが足りないまま
残っていた
そのとき
先生が言った
「シンパシーだね」
その音を聞いた瞬間
わたしの中で
何かがほどけた
探していたものが
外から差し出されたような感覚
言葉を理解したというより
自分の中にあったものに
触れられた感覚だった
日本語では
いくつもの言葉に分かれていたものが
英語では
ひとつの音として立ち上がる
そこには
余白の作り方の違いがある
日本語は
余白の中に意味を置く
言葉にしない部分に
感覚を委ねる
英語は
言葉そのものが
ひとつの塊として立ち上がる
その音が
直接、内側に触れてくる
英語は
前提を共有しない言語だと感じる
同じ場にいることや
同じ感覚を持っていることを
最初から前提にしない
だからこそ
言葉そのものに
意味を乗せていく必要がある
ひとつひとつの言葉が
輪郭を持ち
外の世界に向かって
置かれていく
そのとき
世界は切り分けられ
自分と対象が
はっきりと現れる
一方で
日本語は
共有されている前提の中で
成り立っている
言葉にされない部分に
意味が宿り
余白の中で
感覚が通じていく
その違いが
音や余白として現れ
人の内側に
異なる作用をもたらしている
言葉は
意味を伝えるものではなく
人の内側に触れて
何かを動かすものだと
はじめて
実感した
あいだに立つ
英語と日本語は
どちらが優れているというものではない
外へひらく言葉と
内側に沈む言葉
そのどちらもが
人の中に存在している
わたしの中でも
そのふたつは
分かれているのではなく
同時に存在している
外に向かう力と
内側にとどまる感覚
そのあいだに
立っている
英語に惹かれた理由も
日本語に戻ってくる理由も
きっと
同じところにある
言葉は
ひとつでは足りない
だからこそ
そのあいだにあるものを
見ようとしている
響きと余白
外と内
輪郭とにじみ
そのどちらでもない場所に
立ち上がるものを
わたしは
表現しようとしている
