子どもの言語化と自立の関係

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子どもの言語化とは何か

子どもは、大人のように、

自分の内側をそのまま言葉にすることができない。

けれど、言葉にならないからといって、

感情がないわけでも、理解していないわけでもない。

「言語化」とは、

子どもの心の中にある揺れが、

ひとつの形へと落ち着いていくプロセスであり、

自立の最初の扉でもある。

まず、子どもが、

自分の言葉で、自分の感情を表現できるようになるためには、

感性を育てることが大切になってくる。

そしてそれは、子どもひとりの力では育てることができない。

大人が、子どもの代わりに、

子どもの内側を代弁することで、子どもの器は安定してくる。

しかし、大人とは違い、子どもの場合、

同じ方法で代弁し続ければよいわけではない。

子どもの内側は、成長とともに変化していくからだ。

幼い頃は、

まだ言葉の回路が十分に育っていないため、

大人が子どもの”内側の揺れ”を、

ほぼそのまま代わりに言語化する必要がある。

例えば、

「びっくりしたね」

「痛かったね」

「嫌だったよね」

といった、短く、核心だけを代弁する言葉が、

子どもの器を整える支えになる。

しかし、年齢が上がるにつれて、

子どもは少しずつ”自分の内側を観察する力”を持ち始める。

この段階に入った子どもには、

大人がすべて代わりに説明するのではなく、

「どう感じたの?」

「何が嫌だったと思う?」

と、内側にアクセスする”問い”を渡す必要が出てくる。

問いは、子どもの内側に、

“言葉の回路”を作り出すきっかけになる。

そしてある日、

子どもは大人の助けを借りながらも、

「自分で言葉を見つける」

という小さな変化を起こす。

これが、言語化の芽であり、

自立の最初の扉が開いた瞬間である。

子どもの「言語化」が芽生える瞬間

そして、言語化の芽がどのように育っていくのかを、

わたしは息子の経験を通して深く知ることになった。

ある水曜日。

いつもなら5時間授業の日なのに、

その日は時間割変更で6時間授業になった。

息子はそのことを頭では理解していても、

“内側での処理”が追いつかなかったのだろう。

教室へ向かう途中、

突然涙があふれ、

「帰りたい」「行きたくない」と泣き崩れてしまった。

わたしは時間があったので、

ただ隣で付き添い、息子が泣き止むのを静かに待った。

落ち着いてきたころ、

「どうしたい?」

とだけ、そっと問いを渡した。

すると息子は少し考えて、

「2時間目からならいける」と言った。

けれど教室に向かってみると、

また涙がこぼれた。

もう一度別室に戻り、

息子が自分の内側に向かう時間を確保した。

しばらくして、もう一度問いかけた。

「どうしたいと思ってる?」

息子は、ゆっくりと自分の内側の答えを取り出すようにして言った。

「僕は5時間目までなら頑張れる。」

その瞬間、すべてがつながった。

――水曜日はいつも5時間授業。

でもその日に限って6時間。

“いつもと違うこと”が、息子の内側で処理できず、

揺れとして溢れていたのだ。

息子は、自分の揺れの正体を、

はじめて”自分の言葉”でつかむことができた。

そして結果的には、

彼は最後の6時間目まで授業を終えることができた。

外側の状況が変わったわけではない。

変わったのは、息子の内側に言葉が生まれたことだった。

「5時間目までならいける」という言葉を見つけた瞬間、

息子の中に、揺れを支える”芯”がひとつ育ったのだと思う。

これは、子どもが自分の内側にアクセスし、

言葉を通して”自分を取り戻した”象徴的な瞬間だった。

子どもが自分で言葉を見つける力は、

大人が外側から与えるものではなく、

内側から芽生えてくるもの。

大人の役割は、

その芽が自然に育つように、

子どもの揺れに寄り添いながら”適切な問い”を渡すことだけだ。

そして――

言語化の芽は、そのまま自立の最初の階段へとつながっていく。

言語化が自立へ導くしくみ

子どもが自分の内側を言葉にできるようになるということは、

単に語彙が増えるという意味ではない。

自分の感情に気づき、

その揺れの正体を理解し、

自分の状態を自分で扱えるということ。

これは、大人にとっての「自立」とまったく同じ構造を持っている。

子どもが言語化できないとき、

心の中では曖昧な不安や混乱が渦巻いている。

だけど、その正体がつかめないから、

外側に振り回されてしまう。

しかし、自分の内側が言葉になった瞬間、

揺れがひとつの”形”になる。

形ができると、

人はその状況に対して選択ができる。

選ぶことができると、

その選択を自分で引き受けられるようになり、

その結果として行動が変わる。

この一連の流れこそが、

「自立」の最初の芽である。

では、「自立」とはなんだろう。

自立の「立つ」という言葉は、

決して”物理的に自分の足で立つこと”を指しているわけではない。

本来の自立とは、

自分の内側に気づき、

自分で考え、

自分で選んで進んでいける状態のこと。

ここには、外側の条件は関係ない。

よく「経済的自立=自立」と捉えられがちだが、

それは”外側の自立”にすぎない。

お金を持っていても、

自分の気持ちが分からず、

選択を他人に任せ続けるなら、それは内側では立てていない。

本当の自立とは、

精神的自立と呼ばれるもの。

しかし精神的自立とは、

「誰にも頼らず一人で頑張ること」を指しているのではない。

むしろ、

一人で抱え込み、

誰にも頼らず、

必死に頑張り続けている状態は、

自立ではなく”防衛”に近い。

それは強さではなく、

いつか崩れてしまう脆さを含んでいる。

本当の精神的自立とは、

自分の内側の声を聞き、

その声に気づき、

必要な時に自分を満たしてあげられる状態のこと。

何に傷ついているのか、

何に安心するのか、

どこで疲れているのか、

何を本当は望んでいるのか。

その”自分の声”を自分が理解できると、

外側にしがみつかなくても、立てるようになる。

頼らないことが自立ではなく、

頼り方を選べる状態が自立。

つまり「自立」とは、

自分の声を理解し、自分のために選べる人になること。

選んだ先に「ひとりで立つ」があるかもしれないし、

「誰かに助けを求める」があるかもしれない。

どちらも”自立した選択”であり、

外側の形は問題ではない。

自分の内側を言葉にできるようになるということは、

ただ気持ちを伝えられるようになる、という意味ではない。

それは、

“自分がいま何を感じ、何を望んでいるのか”を、

自分で理解できるようになるということだ。

自分の状態を理解できると、

人は誰かの反応や状況に振り回されずに、

自分で選んだ方向へ進めるようになる。

言語化とは、

自分の内側に立つための最初の力であり、

本当の意味での「自立」の入口である。

ここから、

人はようやく”自分の人生を生きる”ということを始めていく。

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