芸術が人にもたらすもの―美の働きと浄化作用―
“人はなぜ、舞台芸術の世界に足を運ぶのか”
これが、わたしの卒業論文のテーマだった。
舞台芸術に限らず、
コンサートや、美術館、映画館も当てはまるだろう。
音楽、美術、オペラなどの舞台、映像など、
すなわち芸術とともに人の歴史は流れてきた。
“美”を感じる時間。
なぜ、人はそれを求め続けてきたのだろうか。
その答えは、芸術が持つ浄化作用にある。
わたし自身も、美術館や劇場に行くのが大好きだ。
ひとりでふらっと出かけて、
ひとりで世界に浸ることが、至福の時でもある。
絵画を見ていると、目の奥が押されるような感覚になる。
目の前にある色が、
わたしの中の何かと溶け合って、自分の中に溜まっていく。
あの感覚が、たまらない。
絵画を見ているときは、何も考えていない。
ただ、”音”を聴いている。
絵画そのものではなく、
空間との在り方を感じている、と言ってもいいかもしれない。
絵や空間から、音が”聴こえて”くる。
反対に音楽を聴くときは、
わたしの中にはビジョンが流れてくる。
それは、視覚的なもののときもあれば、
感触として感じることもある。
わたしは音楽を、”見ている”。
美に触れているあの時間、
わたしの内面では、このような動きが行われている。
受け身のようでいて、
実はとても能動的な関わり方。
わたしは、作品と”対話”をしている。
これは、スポーツをしているのと似ているかもしれない。
動くことで汗をかき、溜まっているものを発散させるように、
作品との対話で心が動くことで、心の中にある澱みが洗われる。
この心を動かすやりとりが、わたしを浄化していく。
これは、わたしの例だが、
芸術には共通する浄化作用も存在している。
人はふだん、言葉にできない、整理できない、
深すぎる感情を持っている。
でも人は、
言語化できないものを抱え続けると、苦しくなる。
そこに、芸術が現れる。
絵・音・言葉・身体表現・空間・光――
それらは、人の代わりに、
言葉にならない感情を”形”にしてくれる。
内部の混乱や圧力を、外に出してくれる。
また、人は「自分の感情」を外側で安全に見ると、とても癒される。
映画でも音楽でも舞台でも絵でも、
「あの感情知ってる」と、”触れる”瞬間がある。
それは、実際に自分が言ったわけでも、
体験したわけでもないのに、自分のものとして感じられる。
外側の作品を見て、その核にある感情の部分が、
自分の中にある感情の部分と共鳴し、反応する。
つまり、芸術は人の”言えなかったもの”を代わりに言ってくれる、代弁者だといえる。
それに、現実では自分の感情を全部出すことはできない。
でも、劇場や映画館なら、音楽を聴いて、
ストーリーに胸を動かされて、涙を流すことができる。
そして、芸術は拒絶をしない。
すべて受け止める。
だから人は、安心して、感情を流し込むことができる。
感情が解放される。
このように、”芸術”すなわち”美”は、
人の心理と密接に関わっているといえる。
だからこそ、いつの時代も、
人は美のある場所へ足を運び続けてきた。
美は、人を癒し、生活に潤いを与え、
人生に色を添えてくれる。
これだけ、長い歴史をともに歩んできたのだから、
芸術が人にとって必要不可欠な存在であることは、
本来なら疑う余地がないはずだ。
――ところが、そうはならない。
人は、頭では芸術が自分を満たしてくれることを理解していながら、
“必要かどうか”を問われる場面に直面すると、
その優先順位を下げてしまう。
たとえば、習い事のピアノ。
3歳から習い始める。
将来、ピアニストを目指すわけではなくても、
「感性を伸ばすため」「情操教育に良さそうだから」と、
多くの家庭が、芸術系の習い事を選ぶ。
けれど、多くの子どもたちは小学校高学年、
あるいは中学の前にやめてしまう。
理由は、勉強があるから。
もしくは、
「1年習ったけど向いてなさそうだから。」
「全然上達しないから。」
といった声も聞こえてくる。
では、「感性を伸ばす」とは、いったい何を指すのだろう。
美のあいだに生まれるもの――芸術の本質について――
“芸術”というと、
多くの人は特別なものを想像する。
美術館で鑑賞する絵画、
高度な表現、
敷居の高い、遠くにある”何か”。
けれど、人は日常の中で、
すでに芸術を浴びるように生きている。
朝に聴くお気に入りの音楽で、気持ちを整え、
夜に読んだ漫画の一コマに救われ、
映画やドラマのワンシーンに涙する。
それはすべて、
心の浄化作用を持つ”芸術体験“だ。
ただ、本人がそれを「芸術」と認識していないだけで。
では、芸術とはなんなのか。
なぜ、人はそれを求め、
それで整い、癒され、
時に人が動くほどの影響を受けるのか。
わたしは、その理由をずっと考えてきた。
一般的に、
芸術とは3つに定義されている。
①作品として存在するもの
②美しさや感動を生み出す表現
③人間の内面を映し出す営み
もちろん、これらは間違いではない。
しかし、
わたしにとっての芸術の本質は、
そこではないと思っている。
芸術とは、“心が動く現象”のこと。
作品や技術や様式よりも前にある、
心が動く、
内側で波紋が広がる、
何かが違うと感じる、
自分の奥を照らされる、
言葉にならない気配に触れる。
その瞬間(=体験)こそが芸術。
そして、
その瞬間は、単体では生じない。
一方通行ではなく、双方向の動きが生まれる形。
その”関係性”があって、初めて”美”が立ち上がる。
つまり、
芸術(美)とは、関係性で生まれるもの。
人と世界の”あいだ”で生まれる、
心の動きそのもの。
作品は”きっかけ”であって、本質ではない。
本質は、作品ではなく心の現象(体験)にある。
だから、
芸術とは高尚で特別なものではない。
特別な才能を持った人だけのものでもない。
もっと身近で、
自分たちの生活に、密接に関わっている存在だといえる。
「芸術」という言葉のイメージに縛られて、
固定概念を生んでいる。
そう思えて仕方がない。
もし、芸術が自分たちの日常に、
当たり前のように”在るもの”だと認識できたら。
それだけで、
心の在り方が変わってくるのではないだろうか。
作品が放つエネルギーとは何か――心が動く理由――
人は、創作物に心が動かされる。
では、創作物の”何が”、
見る側の心を動かしているのだろうか。
絵画を例にあげると分かりやすいかもしれない。
たとえば、有名なゴッホの作品「星月夜」と「ひまわり」。
「星月夜」は、
ゴッホが自分で精神病院に入院していたときに描かれた作品だ。
この頃の彼が抱えていた、
「不安定さ」「苦しみ」「混乱」といった感情を、
あの”うねるような夜空”で、
強烈で揺れ動くさまをあらわしている。
また「ひまわり」は、
「明るさや生き生きとした」「希望」などを、
作品にしようとしたといわれている。
つまり、同じ人間が描いても、
心の状態で、作品の存在が変わってくる。
なぜなら、
創作物には、創り手のエネルギーが宿っているから。
ここで言えるのは、
作品の色や表現が、必ずしも「安定=明るい、混乱=暗い」に、
直結するとは限らないということ。
痛みの中に希望が、明るさの中に絶望が、
混じることもある。
この振れ幅こそが、
作品の持つエネルギーといえる。
絵だけではない。
写真や文章、音、すべてに創り手の磁場が残る。
だから作品は、
「ただの物体」ではなく、”人の気配”を持つ。
創った人の感情、思考、意図、祈り、願い、記憶…。
そういった”気配”の総体を。
そのエネルギーが、
受け手の内側にある何かと共鳴したとき、
そこに”芸術”が生まれる。
そしてそれは、人間の創作に限らない。
自然もまた、ひとつの「創造物」であり、
光、風、音、色、季節、風景――
自然の持つエネルギーに人が心を動かされることも、
同じ意味で芸術体験といえるだろう。
だから、芸術は”物”ではなく、
心とエネルギーが響きあう現象そのもの、といえる。
では、共鳴する人がいない作品はどうなるのか?
創り手の自己満足なのだろうか?
それは、作品としては自己完結している状態といえる。
しかし、芸術現象はまだ起きていない。
自分自身と向き合い、内側の声を形にして、
自分の世界を作り上げたことは、立派な創造の行為。
しかし、他者の心を震わせて初めて、芸術になる。
だから、二者が必要なのである。
言い換えると、
これこそが芸術家の苦しみだといえる。
その声を、届ける相手がいるかどうか。
その声が誰の心にも届かずに、
消えてしまうかもしれない不安。
その孤独と、ずっと戦っている。
自分の作品は、
誰かの心を動かせるのだろうか。
共鳴が起こるのだろうか。
そもそも、見つけてもらえるのだろうか。
届く場所まで届くだろうか。
表現をする人間は、
見てくれる人がいて、初めて孤独から解放される。
それは、作品を通して、
ありのままの自分自身を見てもらえた、ということだから。
この不安を抱えながらも、手を止めずに表現し続ける人を、
わたしたちは”芸術家”と呼ぶ。
