言葉の奥へ
わたしは大学生の頃から、理由は分からないけれど、
「英語を学ばなければいけない」という感覚をずっと持っていた。
だから、たとえ英語から離れていたとしても、
わたしの頭の中にある「やることリスト」の中には、
ピアノや歴史の学習などと一緒に並んで、常にそこにいた。
英語は、音楽よりも離れていた時間が長い。
でも、ピアノを自分の元へ取り戻し、
ゆっくりとまた、止まっていた時計の針が動き出すと、
当然のように英語も姿をあらわした。
不思議だった。
過去にも、ピアノや創作のように英語にのめりこんだことはないのに、
なぜ消えないのかが。
深く学んで、身につけようとしたわけでもない。
本当に、日本人の平均的なレベルだと思う。
ただ、
英語の”何か”が気になっていたことは確かだった。
そしてその何かは、わたしが創作をするうえで、
とても大切なもののようにも感じていた。
英語をもう一度勉強し直そうと決めたわたしだが、
20代の頃には気づかなかった視点を見つけた。
再開を決めたきっかけは、
ピアノや音楽の文献を読めるようになることだったが、
一度、頭で整理してみようとした。
海外文献が読めるようになること。
話せるようになり、表現の幅が広がること。
けれど、並べてみても、
どこか決定的ではなかった。
そこで、あることに気が付いた。
それは、
“何かをするために”英語を習得したいのではなく、
英語が持っている力が”何にどのように作用するのか”を知りたいのではないか。
ということだった。
すると、続けてこのような点が出てきた。
弱拍、強迫の感覚をつかむ=躍動感のある自然な演奏ができる。
日本語にはないアクセントのつけ方を知る=楽曲のアクセント、フレージングにつながる。
日本語との違い(背景・文化)を知る=視野が広がる、選択肢が増える。
並べてみると分かるように、
わたしが英語に求めていたのは、一般的に多くの人が習得したいと思う英語とは、
少し異なっているかもしれない。
でもこれこそが、
わたしが英語を学びたい理由だったのである。
英語の”型”を身につけようと、本を開いてみても、
なぜかまた振り出しに戻って、
考えに耽っている自分がいた。
ゴールや目的は定まったはずなのに、
なぜ腑に落ちていない感じがするのか。
それは、何かが足りていないわけでも、
何かが違っていたわけでもない。
わたしは、
英語を学ぶ目的や方法を探していたわけではなかった。
言葉が、世界にどのように作用するのか。
言葉の奥にあるもの。
その”入口”を、ずっと探していたのである。
音としての言語
わたしは、英語を言葉としてではなく、
“音”として聞いていた。
今思うと、ずっとむかしからそうだったのだと思う。
英語が耳に入ってくると、
まるで、音楽を聴いているときと同じように、
その音の質感、感触が出てきていた。
だから、
目の前で英語を話している人がいると、
その人が”何を話しているか”という言葉の意味ではなく、
“身体のどの部分が鳴っているか”の方に意識が向いてしまっていた。
単語や文の意味は全く入って来ていなかった。
ただ、
今の音は喉の真ん中あたり。
喉の開き具合はこれぐらい。
これは胸も一緒に響かせてる。
重心は下の方の音。
単語のアルファベットの中には書かれていないはずの音なのに、
この音にはたしかに別の音が含まれている。
このように、身体のどの部分がどのように反応しているのかを、ひたすら聞いていた。
というよりも、気になって仕方がなかった。
オペラ歌手が身体を楽器として響かせながら声を発しているように、
わたしには、英語を話している人たちもそれと同じように見えていた。
わたしにとって、
英語の音は金管楽器に近い。
それも、トランペットよりはトロンボーンのほうが近いかもしれない。
高音より、中低音。
息の音ではなく、管の中で鳴り響いている感じ。
喉を響かせた英語の発音を聞くと、同時に、
このような金管楽器の音がわたしの中に流れ込んでくる。
反対に、
日本語は木管楽器だと思っている。
リードを使用する楽器だからこそ、息の音を感じる。
フルートにはリードはないが、最も呼吸が感じられる楽器だと思う。
その息の音を感じる部分に、「人」の気配を感じる。
吹いている人の存在が近く、
音の立ち上がりに「人」が聴こえる点が、
日本語特有の内側で震え、余韻が残る部分と似ている気がしている。
そしてこの「音としての感覚」は、
後になって、言葉の意味そのものよりも、
言語がつくる世界の在り方へと、
わたしの関心を移していくことになる。
sympathyがひらいたもの
学生の頃に、書いた作文を添削してもらったことがあった。
ある世界に、自分自身も共鳴・共感したことを書きたかったのだが、
しっくりくる言葉が見つからなかった。
共感も、共鳴も間違いではないけれど、
それではわたしが感じているものより狭い気がしていた。
そこで先生に相談してみると、
「あぁ、シンパシーを感じたってことだね。」
と言われ、衝撃を受けた。
わたしが言いたかったニュアンスには、
共感や共鳴のほかに、憧れ、好き、影響といった、
自分の内部が動き、引き寄せられた感覚も混ざっていた。
日本語ではこれらを一語で包める単語が見当たらなかった。
しかし、sympathyはこれらを包括する広さが感じられたのである。
英語が持つ”世界観”が知りたい。
このsympathyの件がきっかけで、
わたしはそう思うようになった。
そしてわたしは、ここからずっと問い続けることになる。
なぜ、日本語では当てはまらず、
英語ではぴたりとはまった感じがしたのか。
それが気になった。
よく、
「日本語は曖昧で幅がある」
「英語は意味が明確で限定的」
と言われることがある。
実際、このsympathyの話を知人にしたとき、
“それはわたしの中に、すでに色々な情報が入っていたから、
その単語をきっかけに結び付いただけで、
単語自体はそんな広域な意味は持っていない。
使う人、受け取る人の持っている情報や感覚の違いだ。”
といわれたことがある。
そのときは、腑に落ちなかったが、
自分の中で説明できる言葉も見つからなかった。
このことから分かるのは、
お互いに話しているレイヤーが違ったということだ。
知人は、言語の”表面構造”の比較を話していた。
でもわたしが見ていたのは、そこではなく、
言語の”運用後”の世界だった。
わたしが英語の方が「世界観が広い」と感じた理由として、
“前提を共有しない言語”である点があげられる。
日本語は、
空気、文脈、関係性、こういったものを先に共有してから話すことが多い。
文脈を「説明する」言語ではなく、
文脈の中に「身を置く」ことで成り立つ言語。
だからこそ、
日本人は空気を読む力が異常に高いが、
言語で説明するのが苦手だったり、
海外に出ると「無口」「意見がない」と誤解されるのかもしれない。
しかし英語は逆で、
共有していない”前提”を言葉で開いていく言語、ではないかと思う。
つまり、
相手がどんな人でも、
背景が違っても、
立場が違っても、
「そこから話し始められる」。
これが、世界が広がる感覚になっているのではないだろうか。
また、明確さ=狭さ、ではないと思っている。
ここがよく誤解されやすところのように感じる。
英語は、「意味がはっきりしている」と言われる。
けれどそれは、
解釈が一つに定まるという意味ではない。
むしろ解釈の入口が無数にある、ということだ。
なぜなら、
文脈を言語でつくる、
比喩を多用する、
読み手が補う余地が前提、だからである。
日本語は、”言わないことで残す”余白が多く、
英語は、”言うことで、余白を発生”させる。
この余白の作り方が違うだけなのである。
また、両者の幅の広がる向きにも違いがある。
日本語の幅は、内向きに広がっている。
行間、含み、沈黙、関係性の深さなど、
同じ文化圏の中で、深く潜る幅。
英語の幅は、
視点、立場、定義の違い、世界の多様性といった、
外へ外へ、視野が拡張する幅。
わたしが、それぞれを金管楽器と木管楽器にたとえたのも、
音を飛ばす先が同じだと感じたからだといえる。
この外向きに広がる英語の広さが、
定義を説明しなくても、
感情・身体感覚・世界観・価値観や、
「なぜ惹かれたのか」というニュアンスまでも、
あのsympathyという単語にまとめて置くことができた理由だと思う。
それは、意味の広さではなく、”使える余白の広さ”だといえる。
わたしは、この体験から、
日本語では分解されてしまう感覚が、
英語では一語でおけることがあると知った。
それは、
英語が曖昧だからでも、
英語の方が厳密だからでもない。
「前提を説明せずに、感覚をまとめて差し出せる言語」として、
英語を体感したのである。
つまり、英語の単語は、
意味が明確ではあるが、
運用するときの射程が広いといえるのではないだろうか。
言語と拍――身体に刻まれたリズム
クラシック音楽を演奏するうえで、
その作曲家の国の言語を知ることは、
とても大切だと思っている。
なぜなら、
言葉のリズムが違えば、
身体の使い方も、
音楽のつかみ方も、
まったく変わってしまうからだ。
日本人がワルツや、
裏拍に重心を置くことを苦手とするのは、
技術の問題ではない。
それは、
わたしたちが育ってきた言語のリズムと、
深く結びついている。
言葉は、
意味だけでなく、
時間の感覚を身体に刻んでいる。
そのため、
頭ではこの違いを理解していても、
身体は自然に反応しにくいのである。
日本語は、モーラ拍(等間隔)といわれ、
一語一語が独立している。
だから発音されない音が少なく、
「間」は空気・文脈でつくる。
このリズムと「細かさ」が、
細部を正確に捉える力が育つ所以でもでもあり、
日本人の強みでもある。
それに対して、
西洋言語(英語・独語・仏語)は、
強弱アクセントがあり、
音の省略があり、
音と音がつながる(リンキング)こともある。
つまり、
全体の流れの中で音が意味を持つ。
だから音楽も、
一音一音を並べるのではなく、
大きな塊として進む。
細かい音を省略しながら、
大きな拍の流れを身体で感じている。
日本人は、
表拍で合わせようとし、
全部を鳴らそうとする。
そのため、結果、ノリが悪くなる。
裏拍や、拍の”間”に重心を置くリズムを、
身体で捉えにくいのである。
つまり日本語は、
音を鳴らすことで意味をつくる言語であり、
英語は、鳴らさない拍を含めて意味が立ち上がる言語といえる。
日本人が、
技術に走りがちになってしまったり、
細かいところはうまいのに、
全体が硬くなる、
という現象は、この言語リズムとリンクしているのかもしれない。
また、英語には発音しない音がある。
これは、単なる省略ではなく、
聞こえないけど存在している。
流れの中では機能している。
音楽でいうなら、
意識されない拍、休符、
でもフレーズを支えている要素。
「鳴らさないことも含めて一つ」という感覚。
弱拍や”鳴らない部分”を含んだリズム感は、
日本語のリズムとは性質が異なる。
クラシック音楽に限らず、
どのジャンルの音楽でも、
この言語のアクセントと、曲の中のフレーズのアクセントは、
重なっていることが多いような気がしている。
日本語は抑揚があまりないため、
曲中どこにアクセントがついても、
それほど気にならないが、
英語や仏語はそうはいかないのかもしれない。
これらのことから、
音楽を大きく、全体的に俯瞰してみるためにも、
西洋の言語を知ることは、
やはり大切だと感じるのである。
