存在するということ

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存在価値とは

自分の内面を掘り下げて言葉にしていくと、

次第に、ひとつの事実が浮き上がってきた。

表面に近い、浅い部分を言葉にしていた頃には、

まだ気づけなかったもの。

一枚ずつ、自分の周りに覆われていたものを、

脱いでいったからこそ見えてきた”核心”。

それは、

「わたしはずっと、自分の存在価値がないと思って生きてきた」ということ。

これこそが、

わたしの奥深くにずっと潜んでいた”根”の部分。

ようやく、そこにたどりつくことができた。

わたしは、自分に自信がなかったわけではない。

むしろ、やりたいことが明確にあり、

そのために走り続けている自分を、誇らしく思ってすらいた。

しかし、今思うと――

この”やりたいことに一生懸命な自分”という存在が、

むしろ自分の核を見えにくくしていたように思うのだ。

それはなぜか。

わたしはずっと、

「何かに向かって頑張っている自分こそが、

自分の存在理由である」と思い込んできた。

目標もなく、立ち止まっている自分には価値がない。

成長していない自分では、存在してはいけない。

その無意識の前提が、

わたしをいつもどこかへ走らせ続けていた。

「夢に向けて必死に走っている自分でいること」こそが、

わたしの存在価値だったのだ。

だから、

“何もない自分”になることが、

いつの間にか怖くなっていった。

立ち止まれば、

存在価値そのものが消えてしまう気がした。

気づけば、夢を追うことは

「叶えたい夢」ではなく、

「価値を証明するために、夢をもたなければならない」

そんな義務へと姿を変えていた。

これは、わたしの話ではなく、

多くの人が無意識のうちに陥る構造でもある。

“存在価値への不安”が、

“夢や努力をやめられない自分”を生み出す。

夢は、本来は自由の象徴であるはずが、

いつしか自分を縛る鎖にもなる。

では、存在価値とは何だろうか。

存在価値とは、

「何かをする」以前に、すでにそこにあるもののことだ。

行動することや、その対価として獲得するものではない。

夢や努力は、

存在価値の証明ではなく”表現”である。

いうならば、

人が生まれた瞬間から持っている、

“初期設定”のようなものだ。

赤ちゃんを思い浮かべてみてほしい。

赤ちゃんは、自分でミルクを飲むことも、

おむつを替えることも、移動することもできない。

できるのは、

泣いて、笑って、寝て、あとは身を委ねること。

けれど、

その赤ちゃんの姿を見ているだけで、

わたしたちは笑顔になり、

癒され、心から愛しさを感じ、

そして満たされる。

赤ちゃんは、ただ”存在”しているだけで、

周りを幸せにする。

ただ、そこにいるだけなのに、

ものすごく大きな影響を与えているのである。

では、どうしてわたしたちは、

その当たり前のはずの存在価値を、

成長するにつれて見失ってしまうのだろうか。

存在価値を見失う理由

わたしは、夢を追いかけて努力している自分に、

存在理由を見出していた。

夢だけではなく、

子育てをしているときもそうだった。

「わたしには、”母親”という役目がある。」

「子どもたちは、自分のことを必要としてくれている。」

「だから、わたしはここにいても大丈夫。認めてもらえる存在だ。」

そんな風に考えていた。

しかし、未来を想像したとき、

たちまち不安が襲ってくる。

子どもたちは、永遠に子どもでいるわけではない。

当然のことながら、成長をする。

成長を感じられるのは嬉しいが、

同時に自分の中で焦りも生まれていた。

「わたしが必要なくなってしまう。」

与えられた役割に縛られて生きることに、

息苦しさを感じていたはずなのに、

いつのまにか、

それがなくなることに強い恐怖を感じている。

役割がなくなった途端、

“空白”ができてしまう。

その状態では、存在価値がない。

そう思い込んでは、

さらに焦りと不安が生まれ、

ますます自分の首を絞めることにつながっていった。

何も持たない、

そのままの自分自身のことを、

自分で認めることができなければ、

人はその価値をどんどん外側へ求めていく。

夢を追っている自分。

目標がある自分。

仕事をしている自分。

妻・母親の自分。

誰か、何かに必要とされている自分。

そして、

「必要とされているから(=存在する価値がある)大丈夫」と、

つかの間の安心を得るのである。

けれど、

外側に存在価値を置く生き方には、

ひとつ決定的な弱点がある。

それは、

「その価値は、常に揺らぐ」ということだ。

役割も、状況も、

人間関係も、評価も、

変わっていく。

自分の外側にあるものは、

どれだけ大切に思っていても、

ずっと同じ形ではいてくれない。

だから、

そこに価値を置くほど、

人は不安定になる。

“わたしは今、大丈夫だろうか。”

“まだ、必要とされているだろうか。”

“今日の自分は、価値があるだろうか。”

気づけば、

一日中、無意識にそれを確認し続けている。

ほんの少し満たされても、

その安心はすぐに消えていく。

「また、証明しなければ。」

そうやって、

自分を追い立てる日々が始まる。

外側にある価値は、

どれも”借り物”のようなものだ。

それだけ手に入れても、

自分の根っこまでは満たされない。

だから、人は走り続ける。

止まると、

“空白”と向き合わなければならないから。

けれど本当は、

その空白こそが、

自分の存在価値へ戻る入口なのかもしれない。

見失っていただけの価値

では、外側に求めても見つからなかった”存在価値”は、

いったいどこにあるのだろう。

答えは、

驚くほど静かで、

驚くほど近い場所だった。

それは、

「何かをしている自分」ではなく、

「ただ、存在している自分」そのもの。

生まれた瞬間の赤ちゃんのように。

親は本当は、

子どもに何も求めていない。

言うことを聞かなくても、

勉強をしなくても、

学校へ行かなくても、

仕事が続かなくても。

それでも本心では、

「生きていてくれたら、それでいい」と願っている。

本当に、それ以外のことは付属でしかない。

存在してくれているだけで、十分なのである。

何かを満たす条件も、行動も、成果もいらない。

ただ、そこで息をしている。

それだけで、

自分以外の誰かを安心させることができる。

――存在価値とは、本来そのように”そこにあるもの”なのだ。

けれど、

わたしたちは成長するにつれて、

“存在しているだけでいい”という感覚を、

ゆっくりと手放していく。

言葉を覚え、誰かに喜ばれた経験を重ね、

やがて、

「できる自分」

「役に立つ自分」

こそが価値だと思い込むようになる。

そうやって、

本来は最初から持っていた”初期設定の価値”を、

自分だけが見失ってしまう。

しかし、

評価されることで安心し、評価されないと不安になる――

これは、人が学習してしまう自然な反応でもある。

存在価値の初期設定が見えなくなる原因は、

必ずしも本人のせいではなく、

“成果主義”で成り立ってきた社会の構造にもあるだろう。

だから、大人になって、

病気になって何もできない、

仕事をやめて立ち止まる、

悩みで動けなくなる。

または、

家事の合間に自分の好きなことをすることにさえ、

罪悪感を感じる。

このような状態に陥ると、

何も”生み出していない”自分を、ダメな存在だと感じてしまう。

「誰かの役に立つものを、”生み出さなければ”価値がない。」

そしてここから、

自責(自己否定)に走るか、頑張り続ける(過剰努力)かのループにはまっていくのである。

けれど、この苦しいサイクルは、

本来の”初期設定の価値”を思い出すための通過点に過ぎない。

失われたように見える価値は、

実はずっとそこに息をしている。

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