内側の世界を構成する三つの視点
「自分」というものを、あらためて観察してみてほしい。
わたしたちは、
誰かと会話をするとき、「言葉を話して」いる。
この「言葉を話す」という行為は、
ただ口から音が出ているわけではない。
多くの場合、わたしたちは話しながら、
心の中で”次に何を言うか”を考えている。
相手の言葉を受け取り、
それを心の中で反芻し、感じ、考え、
「どの言葉を返すか」を選び取っている。
つまりそこには、
外側で声を発している自分と、
内側で言葉を選んでいる自分が同時に働いている。
そして、この二者は連携している関係であるといえる。
けれど、その連携はときにズレたり、
同じ方向を見ていないこともある。
たとえば心では「こう言いたい」と思っていても、
実際に口から出る言葉が少し違ってしまう、というように。
しかし、たとえ心の中(内側の自分)で思っていることと、
外側の自分が反対の行動をしたとしても、
両者はお互いのことを認識している状態にある。
ここまでは、
誰もが理解していて、周知の事実であるといえるだろう。
ところが、もし自分という人間の中に、
この二者のほかに”もう一人存在している”といったら、どうだろうか。
この三人目の存在は、
先に説明した二者のように、
外側からの刺激に対して言葉を発したり、考えたり、感じたりといった、
行動や発信はしない。
何かを判断したり、選び取ることもない。
ただ、静かにすべてを”感じとっている“、そこに在るだけの存在。
この三者の関係を、
わたし自身の体験として見つめてみると――
一つの”俯瞰者“の存在が立ち上がってくる。
では、この存在はどこにいるのか。
三人目の自分は、
わたしの後ろの斜め上あたりにそっと位置しているような存在だ。
行動もしない、思考もしない。
意思も感情も持たず、状況を変えようとする力もない。
ただ、目の前で起きている出来事や、
内側で生まれる感情・思考を何ひとつ付け加えず、取り除かず、
ありのままに見ている”俯瞰者”。
この俯瞰者のまなざしが、
わたしの内側に静けさをもたらしている。
揺れの外に立つ――在り方を支える”俯瞰者”の存在
ではなぜ、この”俯瞰者”は状況に関与しないのか。
なぜ、介入して変えようとしないのか。
そして、なぜこのような存在がわたしたちに必要なのか。
それには、いくつかの理由がある。
人が、何かを選択し決断するには、
それを判断するための”基準”が必要になる。
わたしたちは無意識のうちに、
自分の中にその基準をつくり、そこに焦点を合わせて、
日々判断したり、決断をしている。
しかし、
わたしたちの外側の自分と内側の自分は、
日々揺れ、反応し、変化し続けている。
その揺れている状態では、
正しい判断をすることは困難だ。
だから、その二つのあいだに、
いっさい揺れない”基点”が必要になる。
その“揺れない基点”が、俯瞰者であるといえる。
俯瞰者は出来事を、
感情や思考の色を付けずに見ているため、
怒り、不安、嫉妬、喜び、誤解、他者の反応など、
これらにいっさい巻き込まれない。
だから、生き方を整えるための”原点”になれる。
また、人が苦しくなるのは、出来事そのものによってではない。
相手の言葉の「解釈」や感情が生む「ストーリー」、
思考が作り出す「意味付け」、
こういったものに巻き込まれるから苦しくなる。
でも俯瞰者は、
起きた出来事を事実のまま見ているため、
「~に違いない」「~のはずだ」を作らない。
つまり、
事実と自分の物語(解釈)を切り分ける力を持っているのである。
この視点は、在り方の基礎になるとても大きな役割といえる。
そして、俯瞰者は反応しない。
だからこそ、
外側の自分・内側の自分が揺れても、
「今、どう在りたい?」
「どう振る舞いたい?」
「本当に選びたいのはどれ?」
という、”選択の自由”が生まれる。
もし俯瞰者がいなければ、
感情が強いときは感情に流され、
不安が強いときは不安に飲まれ、
相手を気にするときは相手に従い、
ただ揺れ続けてしまう。
俯瞰者は、
“揺れの外にいる視点”。
だから初めて「選べる」ようになる。
では、この”揺れない基点”は、
わたしたちが日々参照している”基準”と何が違うのか。
次章では、その違いを丁寧に見ていきたい。
揺れる基準と、揺れない基点
「基準」と「基点」。
どちらも似たような言葉に聞こえるかもしれない。
けれど、この二つはまったく異なる働きをしている。
わたしたちは、
日々の選択や判断をするとき、
無意識のうちに”何か”を拠りどころにしている。
それが「基準」だ。
状況に合わせて変わる価値観、
そのときの気分や不安、
誰かから言われたひと言、
周囲の空気や、過去の経験。
そういった”外側にある指標”を参照にしながら、
「どうするべきか」を選んでいることが多い。
しかし、前章で見たように、
外側の自分も、内側の自分も、
絶えず揺れ、変化し続けている。
その揺れの中で判断しようとすると、
わたしたちの選択は、
いつもどこか不安定になる。
では、その揺れに巻き込まれずに選ぶためには、
何を拠りどころにすればいいのか。
その答えが”基点”である。
ここでは、
揺れる”基準”と揺れない”基点”の違いを、
心の構造から掘り下げていきたい。
まず基準とは、
わたしたちが日常で無意識に参照している”移ろいゆく指標”のことだ。
気分、感情、疲労、周囲の反応、社会的な常識、親からの価値観、
その場の空気や人間関係――
こうした”外側の要素”によって、
すぐに形が変わる。
基準は、状況に合わせて揺れ続けるものと言える。
では反対に、基点とは、
世界を見る際に戻ってくる”視点の位置”のこと。
評価軸でもなく、正解でもなく、
誰かの意見でもない。
外側と内側の揺れに巻き込まれず、
ただ世界を見渡すことができる、
揺れない一点としての視点。
前章で触れた”俯瞰者”がここにあたる。
では、なぜ人は基準を基点だと誤解するのだろうか。
多くの人は、
基点という存在を知らない。
すると、外側から与えられた”基準”を、
あたかも自分の中心にある”基点”であるかのように錯覚してしまう。
たとえば、
「怒られないように」
「正しく見られるように」
「失敗しないように」
といった判断が、
自分の本音による選択ではなく、
外側の基準に従った行動になる。
これは、本人は意識していないが、
心の中では常に”揺れの上に立っている”状態といえる。
基準は、比較・判断・正誤を生む。
基点は、世界を見るための”土台”になる。
基準は他者との関係で変わる。
基点は他者に左右されない。
基準は外側にある。
基点は内側にある。
基準は揺れる。
基点は揺れない。
二つの違いは、
「判断のための尺度」か「在り方の出発点」か、
という点に集約される。
では、基準で生きるとどうなるのか。
基準に依存すると、
生き方は常に”他者”と”状況”に左右される。
「不安が強くなる」
「自分の判断に自信が持てない」
「何を選べばいいか分からなくなる」
「人の反応に敏感になる」
「本音が見えなくなる」
これは外側が揺れるたびに、
自分も一緒に揺れてしまうからだ。
反対に、基点を自覚したとき何が変わるのか。
基点は、”反応の外側”にある。
その位置に戻ることができたとき、
選択は驚くほどシンプルになる。
何を選ぶかではなく、
「どの在り方から選ぶか」が明確になるからだ。
これは前章の
「だから選べるようになる」という感覚を、
より構造的に理解する場所になる。
つまり、基点を知ることは、
自分の在り方を取り戻すことだといえる。
