感性と繊細さ――受信・変換・表現という三層構造――
“感性”という言葉を聞いたとき、
どのようなものをイメージするだろうか。
人はよく、
「感性を伸ばす」「感性が豊か」という表現を使う。
その先には、”芸術的な何か”や”優しさ”のような、
ふわっとした曖昧さがつきまとってはいないだろうか。
目に見えない抽象的なものではあるが、
感性は決してふわっとした特性ではない。
もっと深く、
実体のあるものだとわたしは思う。
では、”感性”とは一体何なのか。
わたしはそれを、
世界の微細な変化を受け取る力、と捉えている。
色のわずかな濃淡、
空気の温度差、
天気のにおい、
他者の表情の変化、
自分の内側の揺れ、
音の粒子の動き、
言葉のなる前の気配、
無意識に起こる、身体の微かな反応。
こういうものを、
一瞬でキャッチしてしまう力。
ここまでは、
“繊細さ”と呼ばれる領域でもある。
しかし、感性はそれだけでは終わらない。
受け取ったものを、
色、音、言葉、動き、形、表情など、
自分の内側で”別の質へ変換する”力。
この”内側での変換“こそが、
感性を感性たらしめる核だと、わたしは思う。
受信する(繊細さ)だけではなく、
そこから何かが立ち上がり、
内側で静かに形を変えていく。
この一連の働きを、わたしは”感性”と呼ぶ。
このように、
感性はいくつかの層で成り立っている。
まず、”変化を感じとる(受信する)”といった、アンテナの精度。
ここにはまだ、
“変換作業や””創造性”は入っていない。
繊細さのみでも豊かではあるが、
ときに疲れやすく、傷つきやすいのも、
この段階にとどまっているからだといえるだろう。
次に、受信したものを内側で変換する層がある。
空気の温度差が、心象風景に変わる。
相手の気配が、ひとつの物語になる。
揺れた感情が、詩の言葉に変わる。
風景が、音楽の質感として内側に生まれる。
これらはまだ、
“表現として外へ出る前の段階”にあるもの。
しかし、明らかにもう感性の仕事をしているといえる。
つまり、感性とは、
受け取る(繊細)
↓
意味づけ、変換する(感性)
↓
外に出す(表現)
という三層構造になっている。
繊細さは、感性の入り口である
“繊細であること”は、
ときにネガティブな意味に捉えられることがしばしばある。
「鈍感力」という言葉があるように、
外側の刺激を受けすぎることは、
強いストレスにつながり、
自分自身を疲弊させる要因になる。
そのため、人はストレスを減らすために、
“受け流すスキル”を身につけるといいとされている。
このように、繊細である人は、
自分自身を守るための術を身に着ける必要がある。
これが、自分自身を守る=弱い存在、
というイメージを植え付けているのかもしれない。
繊細であることは、弱さではない。
むしろ、繊細な人ほど本当の強さを持っている。
なぜなら、
人よりも情報を多くキャッチしてしまう分、
相手の感情が理解できてしまう。
一つの情報から、
驚くほどの想像力で、先のことを見越してしまう。
それが、本人に不安の種を生み、
苦しむことにもつながるのだが、
本来はそれだけ”深い理解力”を持っているということだ。
他者の気持ちを考え、尊重できることは、
優しさでもあり、それは強さでもある。
だから私は、
繊細であることは”欠点の裏返し”ではなく、
最初から”長所として存在している力”だと思っている。
その想像力があるから、
クリエイティブな発想ができる。
人の痛みがわかるからこそ、
同じことはしない、流されない。
それは、強さでしかない。
繊細であることを隠すのではなく、
堂々と誇ればいいと思っている。
だから、繊細さは感性の入口となり、
子どもの情操教育においても、とても大切な力になる。
感性が育つと、世界はどう見えるようになるのか
繊細であることは長所であるとはいえ、
やはり受け入れる情報量が多くなると、
当然ながら、苦しくなってしまう。
なんでも適正量というものが存在するから。
だからこそ、
受信した情報を変換し、できれば外へ出す作業が必要になる。
また、この変換作業には、
無自覚の場合と自覚している場合の二通りがある。
無自覚のまま行われると、
本人のなかでは「ただ感じただけ」と思っているが、
実際には内部で大きな変換作業が起こっているため、
揺れやすく疲れやすい。
しかし、これが自覚できるようになると、
自分の中で起きていることを理解することができるため、
“変な感じをそのまま放置しない”。
音を聴いて、感情や色を言語化する。
相手の表情から、論理的に意味を読み取る。
風景の印象を意識的にスケッチに落とす。
このように、
自覚して変換できるようになると、
自分の内部で起こっていることが、言語化、可視化されるため、理解できる。
すると、揺れにくく安定するため、
外側の影響を受けにくくなる。
自分の中に、
安定した器があるからこそ、
自分の表現の幅を広げていくことができる。
この「受け取る→内側で変換する→安定する」という流れは、
誰の中にも本来備わっている働きであり、
感性が成熟していくと静かに育ち始める。
わたしは、この内側の働きが整っていくことこそ、
心が豊かに育つことだと思っている。
そしてこの考え方は、
子どもたちの心の育ちにもそのまま重なる。
この「内側の流れ」は、大人だけのものではない。
むしろ子どもたちは、大人より多くの情報を受け取り、
その変換が未熟だからこそ、日常で揺れが表にあらわれる。
その子どもたちの揺れをどう支えるのか。
ここから、”情操教育”の話に入っていく。
では、”情操教育”とは、一体どのような営みなのだろうか。
情操教育とは
子どもたちは、
大人よりもずっと多くの情報を感じ取っている。
ただ、その量を自分で整理する力がまだ未発達なため、
戸惑い、揺れ、泣き、立ち止まることがある。
例えば、
外で急に雨が降り始めた瞬間に泣き出す子がいる。
「悲しい」というけれど、
実際には、光が急に暗くなった違和感に驚いただけだったりする。
その感覚を自分で言葉に変換できないから、
泣くという形で溢れてしまう。
レッスンの中でも、
ふと窓の外を見つめたまま動かなくなる子がいる。
大人には、ただ集中が切れたように見えるが、
その子の内側では、夕日の色の変化に気づき、
“何か”が静かに揺れているのかもしれない。
その揺れを止める必要はない。
「どんなふうに見えた?」
「光が変わったの、感じたね。」
ただその一言で、
子どもは”感じたこと→意味づけ”への小さな変換を経験する。
日常でも同じことが起きる。
公園で友達に砂をかけられ、急に怒り出す子がいる。
怒っているように見えても、
その奥には「痛い」「驚いた」「守りたい」が混在している。
大人が、「怒らないの」と言ってしまうと、
その複雑な感情のどれも処理されないまま、
子どもは”どう扱えばいいか分からない揺れ”だけを抱える。
しかし、友達に砂をかけられたとき、
子どもが怒るのは当然である。
それが”わざと”なら、
怒りは自分を守るための健全な反応だ。
大人がそれを否定すると、
子どもの境界線は揺らぐ。
一方で、偶然砂がかかっただけという場合、
怒りには”攻撃された”という意味よりも、
「痛い」「驚いた」「嫌だった」が混ざり合っている。
つまり、同じ”怒る”でも、
内側で起きていることは全く違う。
大人がしてあげられるのは、
その違いを見極め、子どもの内側の揺れを代弁すること。
「痛かったね」
「驚いたね」
「急にかかって嫌だったよね」
このように、”怒りの内側”を言葉にしてあげると、
怒りは安全に着地する。
そして子どもは初めて、
自分の感情を”扱えるもの”として理解し始める。
こうした、
受け取る→内側で変換する→そのままでも安全でいられる→自分で扱えるようになる、
という一連の流れを支えること。
これこそが、
わたしが大切にしたい”情操教育”の本質である。
情操教育とは、”特別な場”や”専門家”がいないと成立しないものではない。
ほとんどは、毎日の生活の中で自然に行われている。
つまり、
情操教育は「技術」ではなく「関わり方の質」といえる。
そのため、外に求める必要はなく、
大人の意識ひとつで、子どもの器(心の中の安定の土台)は大きく育てられる。
身近な大人の”受け止め方の質”。
むしろ、家庭や日常の中の関わりの方が、
「本物の情操教育」になる。
大人が芸術に触れる時、
自分の内側を芸術に代弁をしてもらっている。
そして、この構造をそのまま子どもに渡しているのである。
つまり、情操教育とは、
大人が芸術から受け取っている”代弁”を、
子どもに対して行う営みであるといえる。
情操は広がりではなく、輪郭として育つ
情操教育という言葉には、
「心を豊かにする経験を与えること」や
「芸術に触れることで感性が育つ」といった広がりをもつイメージが、
一般的に結び付けられてきた。
歴史の中で、芸術は人の心を揺らすものして扱われ、
その揺れがそのまま情操の育ちであると、
長く信じられてきた背景がある。
しかし、その揺れそのものが情操を育てるわけではない。
心が刺激を受け、動くという現象は、
誰にとっても自然に起こり得ることである。
むしろ、日々の生活の中で心の動きが固まり、
揺れ幅が小さくなってしまった大人にこそ、
外側からの揺らしが必要なのかもしれない。
一方で、子どもはすでに、
日常の中で十分すぎるほど心を揺らしている。
だからこそ、情操教育の本質は、
揺れを増やすことではなく、
その揺れが自分の中で形を帯びていくことにある。
情操教育の、心が四方八方無限に広がっていくのではない
その在り方は、建築に似ている。
家は、ただ広ければよいわけではない。
どれほど大きな間取りをつくったとしても、
基礎や柱がなければ立ち上がることはないし、
空間が広すぎれば、
かえって自分がどこにいるのか分からなくなる。
大切なのは、建物を支える見えない構造である。
情操も同じである。
心が外側へ広がり続けることが情操の育ちではない。
むしろ、内側に一本の縦の芯が通り、
揺れを受け止める器の輪郭が形づくられていく過程に、その本質がある。
その縦の構造は、
次の三つの層から成り立つと考えている。
第一層には、
日常の中で自然に生まれる感情の揺れがある。
第二層には、
その揺れがどのような形と温度を持ち、
どこから立ち上がったのかを捉える気づきと意味づけの層が、
静かに育っていく。
そして最上部には、
その揺れを自分自身の言葉として扱える段階がある。
この三層が下から上へ静かに積み重なっていくとき、
心は外へ散らばらず、
中心へと集まり、ひとつの構造として立ち上がる。
そのとき、心はようやく自分の場所を見つける。
情操教育とは、この内側の建築が形作られていく過程であり、
そこに、自立へ向かう最初の芽が生まれるのである。
