はじめに
「忙しくて時間がない」
この言葉を
何度も耳にしてきた
大人からも
子どもからも
そして
わたし自身からも
働かなければ
生きていけない
それは現実だ
けれど
本当にそれだけなのだろうか
ずっと
問い続けてきた
忙しさを理由に
自分の感覚に向き合うことを
後回しにしていないか
ほんの少しの時間さえ
持てなくなるほど
遠ざかってしまっているのではないか
この場所は
「何かを頑張る場所」ではない
一度
立ち止まるための場所だ
音や色に触れながら
自分の内側で起きていることに
耳を澄ませる
それは
贅沢でも
逃げでもない
生きる感覚を
取り戻す時間だ
その時間の中で
自分が何を感じているのか
どこに違和感があるのか
少しずつ
見えてくる
外の答えではなく
内側の感覚を軸に
選ぶこと
その積み重ねが
自分で選ぶ力を
つくっていく
逃げない大人であること
「不登校」という言葉が
社会に知られるようになって
長い時間が経った
この言葉は
自分と切り離すことができない
テーマでもある
わたしが20歳のとき
妹は中学生で
不登校になった
当時は
その状態がどれほど
深いものなのか
分からなかった
振り返ると
家族も
わたし自身も
必死に日々を回す中で
余裕を持てずにいた
長い時間を経て
ようやく
落ち着いた風景の中に立つ
気の遠くなるような時間だった
けれど今
それぞれが
自分の道を歩いている
「もう大丈夫」
そう言える場所にきた
この経験は
子どもに対する関わり方にも
自分の生き方にも
深く影響している
「不登校」という言葉は
今でも
誰かの中で
揺れている
見えない時間の中で
受け入れられずにいる人も
まだ少なくない
理解しているつもりで
本当は
自分の物差しの中に
閉じ込めてしまうこともある
大切なのは
子供の声に
耳を澄ませられるかどうか
学校を拒否する子どもほど
自分の内側の声に
正直でいる
周りに合わせられないのではなく
合わせられないほど
自分を感じている
それは
弱さではない
とても強い感覚だ
人生は
まだ続いていく
その一部の時間だけを見て
すべてを決めることはできない
それでも
大人は
比較し
評価し
急ごうとする
けれど
そのどれもが
本質からは
遠ざかっていく
子どもが立ち止まるとき
問われているのは
大人の在り方だ
逃げない大人がいるかどうか
それを
子どもは見ている
「逃げない」というのは
何かを正すことでも
答えを出すことでもない
関係の中に
立ち続けること
分からなくても
向き合い続けること
それが
信頼になる
存在として、同じ高さに立つ
子どもと向き合うとき
「教える人」と
「教えられる人」
その関係には
立たない
同じ世界を
同じ高さで見る
そこからしか
見えないものがある
すべてを許すわけでも
何でも受け入れるわけでもない
人と人として
向き合う
その中で
感じたことを
持ち寄る
それが
関係になる
子どもは
大人を
鋭く見ている
表面的な言葉ではなく
在り方そのものを
感じ取っている
子どもを
未熟な存在として扱うのではなく
今ここにいる
ひとりの人間として向き合う
そこから
本当の関係が生まれる
在り方を見せるということ
大人の在り方は
少しずつ
子どもに届いていく
無理に変えようとしなくていい
ただ
在ること
それだけで
伝わるものがある
子どもは
その姿を見て
感じ
自分の中に持ち帰る
やがてそれは
その子自身の感覚として
根を張っていく
大人が何かを教えることで
世界が変わるわけではない
子どもが
自分のままで立てるとき
世界は自然に更新されていく
だから
近くにいる大人が
そのままの姿で
在ること
それだけでいい
ここでは
何かを教えようとはしていない
何かの役に立とうとして
立っているわけでもない
ただ
ひとりの大人として
ここにいる
その在り方を
同じ空間で共有する
何かを感じて
持ち帰ってもらえたら
それで十分だ
