感じる力について
「感じる力」とは
言葉になる前の世界を
そのまま
受け取ることだと
思っています
何が好きで
何が嫌で
どこに心が動き
どこに違和感が生まれ
どんな景色に
惹かれていくのか
その小さな揺れを
そのまま受け取れる人は
外の正しさや
期待に流されずに
“自分の人生”を
選ぶことができます
けれど
大人になるにつれて
その揺れは簡単に
分からなくなってしまう
「こうしたほうがいい」
「こうするべき」
「みんなはこうしている」
そんな声のほうが
大きくて
自分の内側の
静かなサインが
聞こえなくなる
わたし自身も
長い間
「感じる力」を
どこかに置き忘れて
生きてきました
頭で考えることは
得意なのに
心が動いている方向が
分からなくて
いつもどこか息苦しい
振り返ると
自分の内側と
繋がっていなかっただけ
なんですよね
そして子どもたちは
この”感じる力”を
大人よりずっと深く
持っています
理由を探す前に
説明しようとする前に
まず”体”で
世界を感じている
音の小さな揺れに
気付いたり
ひとつの色に惹かれて
指が止まったり
空気の変化にふっと
息が変わることもある
その子の”今”は
こうした反応の中に
そのまま現れています
また子どもは
お母さんの
心の動きにも敏感で
無意識のうちに
その変化を
受け取っていることが多い
親子は
言葉より深いところで
“静かに連動している”のだと思います
感じる力は
本当の自分の声に
気付くための
いちばん
小さな入り口
本当に生きる力になるのは
外側の答えではなく
内側の揺れに
気付く力です
それは
生きるうえでの
“方位磁針”のようなもの
それがあると
まわりの音が
どれだけ大きくても
自分の道に
戻ることができます
アトリエでは
その子の内側を
言葉で引き出すのではなく
音や色を
入り口にして
「心がどちらに動いているか」を
感じてもらいます
気分カードを選ぶこと
音がふっと
動き出す瞬間
ひとつの色に
惹かれて指がとまること
どれも小さな
出来事だけれど
そこに
その子の”今”が
そのまま現れています
ピアノは
技術を学ぶための
楽器ではなく
子供が
自分の内側に触れるための
“入口”にもなるもの
音が動くとき
その子の心も
動いている
音が迷うとき
心も少し
立ち止まっている
その微細な揺れを
大切にしているから
アトリエのレッスンは
「感じること」から
静かに始まります
共に世界に入るということ
ある日
アトリエに来てくれた
生徒さんと初めて
「お絵描き」をしました
わたしと
その子と
お母さん
三人で同じ空間に座って
それぞれ描いていました
音楽は
しませんでした
その子は
ただ夢中で描いていて
その時間は
それで終わりました
帰り際にお母さんが
「こんな感じでよかったですか?」と
聞いてくれました
わたしは 心から
「全然いいと思っています」
と答えました
その時間の中で
わたし自身も
描いていたからこそ
その子の世界が
自然とこちらに
開いてきたように
感じたからです
「先生、うまい」
そう言ってくれた
その声から
「何色を使っているの?」
「それは、バラ?」
「もう完成なの?」
そんな問いが
生まれました
作品を
“評価する”のではなく
同じ世界を
同じ高さで見ていた
その感覚こそが
わたしがアトリエで
大切にしていることなのだと
あの時間を通して
改めて気づかされました
子どもが描いた作品に
何かアドバイスをしたり
教えたりするわけではない
子どもが自由に
描いている姿を見て
出来上がるのを
待っているだけでもない
子どもが
今どんな世界に
入っているのか
何を見て
何を感じているのか
それを外から
評価するのではなく
同じ空間で
同じ時間を生きること
わたしが
あの時間でやっていたのは
「共に世界に入ること」
だから
子どもの目が輝き
質問が生まれ
自然な対話ができる
同じ絵を描く行為でも
家との違いは
大人も一緒に創っている
大人も未完成
大人も問いを
持っている
だから
子どもにとってわたしは
教えてもらう人ではなく
“一緒に探す人になる“という点だと
思っています
即興演奏でも
お絵描きでも
創る行為は
そのための
「共通の言語」です
ここでは
「ピアノをやる」
「音楽をする」
という決まりは
ありません
でも 音はいつも
ここにあります
つくることの途中で
ふと音と
つながりたくなったとき
その扉が静かに開く
そんな時間を
大切にしています
