「親しみの正体」

「人」を

「物」のように扱う人がいる

きっと

本人は無自覚で

そんなつもりはないと思う

だけど

されてる側としては

何か違和感が残る

でも

そのことに気付くのも

難しい

それくらい

分かりにくく

見えにくいところで

行われている

そういう人たちは

たいてい

気さくで

人当たりがよく

細かいことを気にしない

さっぱりした人

そんな

自己認識なのかもしれない

それは

つまり

「こっちも

 細かいことを気にしないから

 これくらい

 いいよね?」

そう聞こえなくもない

砕けた物の言い方は

相手に親しみを感じさせる

自分が

受け入れられているような

感覚になる

もちろん

本当に

その場合もある

でも

もし自分の中に

わずかでも

違和感が生まれたのなら

疑った方がいい

親しみ

仲間意識という

一見

居心地が良さそうな場所

そこに行けば

必ず

自分の居場所が用意されている

そんな安心感

でも

本当にそうだろうか

その

違和感の正体は

きっと

それは

「親しみ」ではなく

「物扱い」をされていたという事実

「親しき仲にも礼儀あり」

という言葉があるように

本当に

同じ「人」として

接する人は

相手への

リスペクトの気持ちを

失わない

どんな人に対しても

きれいな線を

引くことができる

線を引くことは

冷たさではなく

尊重の表れ

人として

当たり前のこと

「子どもだから」

にはならない

子どもでも

大人でも同じ

だって

同じ人間なのだから

年齢は

関係ない

人を人として見ている人は

お互いの輪郭を

ぼかそうとしない

距離が近いと

結束が強い

親しい仲のように見えるけど

実際は逆のことが多い

親しさと

なれあいは全然違う

相手の輪郭を崩すことの

その奥には

同化したい気持ちが

潜んでいる

その人のもっている形に

目を向けず

無視する

それは

「個」を消そうとする行為

「これくらいなら

 踏み込んでも大丈夫」

そうやって

自分の都合のいい形に

相手の形を変えようとする

されている側としては

物理的な距離は

近いはずなのに

周りから見たら

親しそうな関係に

見えるのに

自分を

受け入れてもらっている

感じがしない

その矛盾が起こる

その人たちの

生き方が悪いと

言いたいわけじゃない

生き方は

個人の自由だ

ただ

そんな扱いをされている自分を

自分で許したままでいいのか

それは

自分も

自分を物扱いしているのと

同じことだから

他人は

変えられない

変えられるのは

いつだって

自分自身だけ

もし

小さな違和感を

感じたことがあるなら

少しだけ

立ち止まって

自分自身のことを

見つめ直してみても

いいかもしれない

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